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木内幸男氏、茨城県常総学院野球部の監督として現場復帰!?

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木内幸男氏!いったい誰がこの名前を知っているというのであろう!?とちょっと硬いですが・・・でも、知っている方はほとんどいない、というのが正直なところではないでしょうか。地元、茨城県の高校球児であれば知っているのでしょうけど・・・

簡単に木内氏を知って頂くには、「2007 夏の高校野球 - 常総学院に木内氏が現場復帰/夏の甲子園 - Yahoo! スポーツ」が良いと思います。

甲子園通算 40 勝、全国制覇もした名将、常総学院(茨城)の前監督・木内幸男氏 (76) が同校の監督に復帰することが 13 日、明らかになった。この日の初戦は京都外大西に延長 12 回、2 度同点に追いつきながら最後は 3-5 で敗れ、持丸修一監督 (59) の退任が決まった。木内氏は春夏通算 20 度甲子園に出場。03 年に同校を日本一に導いたのを最後に勇退した。

当時、地元茨城県では、家業である八百屋!?をほったらかしにして、「弱い茨城県の高校野球に夢中になっている普通のオヤジ」と噂されて続けました。その「オヤジ」が県立取手二高を率いて甲子園に出場したのが 1977 年。その後、1 回戦敗退を繰り返します。その状況は、ウェブページ「伝説のプレーヤー::甲子園にこだわり続けた男」に記述されています。

最初に木内がとった教育は、スパルタだった。木内は、選手のレベルを上げるため、テスト期間中であっても学校に知られないよう川原に選手を集めて練習させたという。試行錯誤の末、初めて甲子園に辿り着いたのは 1977 年の夏だった。木内が取手二高の監督になって既に 20 年が経過していた。そうして、初めて甲子園に出られたとき、選手の中に甲子園を楽しむという雰囲気はなかった。悲壮感が漂うような重苦しいチームになっていたという。

とにかく厳しい監督で有名でした!ところが甲子園へは出場するもとにかく負け続け、「茨城県高校野球の恥」とまで噂されたことを記憶しています。その木内氏が、変化を始めたのが 1984年!それが、前述のウェブページ「「伝説のプレーヤー::甲子園にこだわり続けた男」にも記述されています。

木内は、甲子園の壁に跳ね返されながら、自らの中で一つの意識改革をする。甲子園で野球をして勝つ喜び、プレーする楽しさを教え込み、茨城県勢を全国で通用するレベルにまで上げようと誓うのである。「スパルタ」に「のびのび野球」を加える。1984 年こそ、それが花開いた年だった。木内は、取手二高を率いて夏の甲子園に出場する。木内にとって、春夏通じて 6 回目の甲子園だった。

名将、木内監督!どうやってチームを立て直すか、ということも注目ですが、やはりスポーツでは、「勝つことの楽しみ方」を知っていないと勝てません。意外とこの簡単なことが忘れられてしまいますが、名将といえども 20 年以上もかかって解った事ですから、それを短時間で理解するのは難しいのかもしれませんね。



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